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初代大橋宗桂(1555~1634)

一世名人。初名は宗金ついで宗慶と称していたという。織田信長、豊臣秀吉の御前でたびたび将棋を披露し信長から宗桂の名を与えられた。1612年に徳川家康から五十石五人扶持を賜った。棋譜は囲碁の本因坊算砂との対局が八番のみ伝わり宗桂の7勝1敗。宗桂は、京都の富裕な町衆の一人と推定され、同じ宗の字を持つ能役者のグループとの関連が指摘されている。僧体で十徳を着していた。以後将棋家の嫡男は必ず剃髪して、十徳を着する先例となった。菩提は京都深草・霊光寺

二代大橋宗古(1576~1654)

二世名人。初代宗桂の長子。宗桂の没後、大橋家を継ぐ。翌年に、宗古の弟、宗与を祖とする大橋分家と、伊藤宗看を祖とする伊藤家が創設され将棋三家の制が確立した。宗古も本因坊算砂との対局が十五番伝わり、宗古の9勝5敗1持将棋。二歩、打ち歩詰の禁止、行き所のない駒を打つことの禁止、千日手の規則を成文化する。菩提は京都・本法寺

初代伊藤宗看(1618~1694)

三世名人。宗古の娘を娶り、18歳で伊藤家を興す。出雲の出身であるが前名は不詳。松本紹尊をはじめ在野の強豪の挑戦を次々にうけたが、ことごとく退け、将棋家の面目を保つ。宗古の没後三世名人を襲う。大橋本家の四代宗伝が25歳で早死にして、断絶の危機に見舞われたとき、一子宗銀を養子にして大橋本家を救った。宗看の時代から、将棋三家は京都から江戸へ移住したようだ。菩提は東京都墨田区・本法寺

五代大橋宗桂(1636~1713)

初代伊藤宗看の実子で前名は伊藤宗銀。1691年(元禄4年)に四世名人を襲う。実父宗看が在野の強豪をほとんど退けていたためか、伝えられる棋譜は少ない。日記「五代宗桂記」は、当時の将棋家の貴重な記録。

二代伊藤宗印 (?~1723)

前名鶴田幻庵。肥前の国唐津の出身。初代宗看の養子となり1691年(元禄4年)伊藤家を継ぐ。五代宗桂没後五世名人を襲う。宗印には五人の子があり長男印達は15歳で早世したが、次男が七世名人宗看、三男が大橋家を継ぎ八代宗桂、五男が贈名人の看寿と子宝に恵まれた。

三代大橋宗与(1648~1728)

初代宗桂の曾孫にあたる。1723年(享保8年)76歳の高齢で六世名人を襲う。77歳で御城将棋に出勤するのも最年長記録。大橋分家から初の名人。

三代伊藤宗看(1706~1761)

前名印寿。宗与没後23歳で七世名人を襲う。鬼宗看と呼ばれ、御城将棋でも18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った。また詰め将棋の創作も素晴らしく、その作品集、象戯作物は別名詰むや詰まざるや、あるいは将棋無双ともよばれ、詰め将棋史上の傑作とされている。江戸時代の名人の中でも傑出した名人といえる。宗看が56歳で没した後、名人は初の空位を記録する。

九代大橋宗桂(1744~1799)

前名大橋印寿。八代宗桂の嫡子で五世名人伊藤宗印の孫、七世名人伊藤宗看の甥にあたる。1789年(寛政元年)27年間空位を続けていた名人を継ぎ、八世名人となる。詰め将棋の名手でもあり、その作品は九代宗桂図式と呼ばれ、宗看、看寿の作品の次位に位置するといわれている。御城将棋の成績は16勝12敗6持将棋の記録を残す。

大橋宗英(1756~1809)

九代宗桂没後九世名人を襲う。大橋分家の五代宗順の庶子で幼少のころ里子へ出されていたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されたという。18歳で宗英を名乗るが、将棋家の者との対戦は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は23歳で、将棋家の者としては遅い。しかし、後大成して、鬼宗英と呼ばれた。その将棋は相掛り戦法や鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で新しい将棋体系の創造に力を尽くした。江戸時代にあって近代将棋の祖といわれる。1790年(寛政2年)の九代宗桂との対局は御城将棋史上の名局とされる。また、将棋家の秘伝といわれる定跡を出版の奨励し、民間棋界の発展に大きな影響を与えた。子供でも無段の者でも教えて欲しいと頼まれるとよろこんで相手をしたという。江戸時代最強の名人である宗英は御城将棋の日に病をおして登城したがその日に死ぬという劇的な幕切れで生涯を終えた。

六代伊藤宗看(1768~1843)

前名松田印嘉。1789年(寛政元年)に18歳で伊藤家を継いで六代伊藤宗看を名乗った。九世名人大橋宗英を助けて寛政の黄金時代を築いた。十世名人となるのは宗英没後16年を経た1825年(文政8年)58歳の時である。長く御城将棋を勤め、様々な新手を試みた。江戸時代最後の名人である。

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